戦国時代初期の永正年中(1504~20)、関東管領上杉顕定が砺波地方を略し、弟の九郎房義の将、小林壱岐守が、この地に城を築き山田郷を治めていた。
現在ある土塀は当時のものと伝えられ本丸跡を示すものである。小林壱岐守は、主人房義死後は、越後に帰り廃城となるが、地元の人達は神明社を迎え現在に至っている。(以上、城跡案内板より)
城は本丸の北方向に延びていたと推測されるが、その痕跡は今は全くない。
また、地元伝承によると、その後藤井嘉兵衛が城主となるが上杉謙信に攻められ戦死。その妻いちは臨月だったが、長男とともに脱出、家来の畑六郎左衛門の家で出産したが、敵兵の追及が厳しく、生まれたばかりの赤子を地中に埋めて逃れようとしたが、それもかなわず村外れで自害したという。その赤子の菩提を弔う「産子塚」が現在も遺る。(撮影2008年5月)
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宗守城全景(北西より)
宗守城跡入口にある石碑と案内板。
案内板
城跡西側の土塁跡
城跡東側の盛り土。
これは土塁跡ではなく、圃場整備の時に盛られたもの。
古図では、もともと東側に土塁は存在していない。
本丸内(神社境内)
社殿西側の土塁跡
かなりの高さを持つ
城跡南側の土塁跡
宗守城航空写真
(昭和50年・提供:国土画像情報 国土交通省)
宗守交差点にある「産子塚」
周囲の水田が埋められて道が併設されていました。
この写真は西側の土塁
これは南側の土塁