富山県高岡市二塚(地図)
鎌倉時代末期、越中守護名越時有は放生津に城を構えると共に、二塚にも支城を構えた。
大覚寺門跡の恒性皇子は、父後醍醐天皇の倒幕計画に加担したことにより二塚へ流罪となり、名越時有は二塚城に幽閉した。その後、後醍醐天皇は流刑地隠岐から脱出し、再び挙兵。恒性皇子を助け倒幕しようとした越後・出羽の武士団を恐れた北条高時の命令により、名越時有は恒性皇子を殺害した。
皇子が殺された時、随従の日野直通と勧修寺家重、近衛宗康の3人の侍臣も殺害され、さらし首となった。その場所は現在も小字名「三ヶ首」として残る。また、皇子を火葬した場所は「皇子三昧」(みこざんまい)と言われる。
その後、越後・出羽の天皇方軍勢が越中に押し寄せ、名越時有と弟の有公、甥の貞持は二塚城での防戦をあきらめ、放生津城に入るが、敗戦を悟った脱走兵が多く、城に火を放ち自刃し名越氏は滅びたという。
尚、二塚にある恒性皇子の墓は、富山県で唯一の皇族陵に定められ、宮内庁が管理している。(撮影2010年8月)
二塚城石碑
石碑には「太刀城跡」とあります。
「三ケ首」については、上記説明文参照。
二塚城石碑。周囲は田んぼで遺構はありません。
近くに恒性皇子の墓地があります
恒性皇子御墓由来
恒性皇子御墓
富山県で唯一の皇族陵として宮内庁管理地となっています。