富山県高岡市福岡町加茂(地図)
『二宮円阿軍忠状』によると、貞治2年(1363)3月13日、桃井直常の討伐軍に参加した二宮氏が「鴨城衆」を命じられ、同年5月12日には「鴨城衆」とともに頭高城(頭川城)を焼き払ったとある。
また長禄年間(1457~1460)加賀半国守護の赤松政則が五位庄高畑村(加茂)の上、城ケ平と称する地に居住し、延徳3年(1491)冷泉為広の『越中下向日記』には「カモ山のフタツ城」と記録されている。
主郭周辺の空堀から戦国時代の改修もあったと思われるが、曲輪の削平が不十分なことから一時的な使用だったと思われる。また、尾根続きの元取山には小規模ながら砦跡があり、詰めの役割を果たしたのだろう。更に付近一帯には「武家屋敷跡」や寺院跡と言い伝えられる削平地が多く存在し、長く歴史の舞台であったことに違いない。
地元の方によりハイキングコースとして整備されていて、非常に訪問しやすくなっています。(撮影2010年3月)
鴨城案内板。随所に立っているので分かりやすいです。
城跡までのルートは、別ページを参照にしてください。
鴨城縄張図。以降、この図面で説明しましょう。
城跡西側の空堀跡を北から見る。
城跡西側の空堀を南から見る。結構な深さです。
主郭南側にある「馬の鞍掛け」という郭部分。
本丸跡(櫓台:図面Aの部分)
「大松平」と呼ばれている部分
本丸跡にある案内板
本丸跡にある案内板
本丸より東方向を見る。非常に広い空間です。
しかしダラダラと中途半端な削平です
。自然地形をそのまま生かしたのでしょう。
本丸の北側下段
城跡北側の空堀跡(図面2の部分)
東側から本丸方面を見る
奥が東端になります
東端は「二の丸」の説明板がありますが、明確な区別はありません。
東端下の堀切部分(図面3)
浅く堀切を設け、土橋状態にしているらしいのですが、よく分かりません。
さて、出丸方向へ向かいましょう。
出丸(C)の手前に浅く堀があります。(図面4)
出丸(にらみ山砦)部分(図面C)
鴨城・元取山砦城郭図(『富山県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用)