富山県魚津市本町(地図)
魚津市街地に古くからある平城。角川河口にあり港も近く交通の要衝であるが故に、争奪戦が繰り広げられた場でもある。
最初は守護代椎名氏が館を構えたと伝承がある。戦国期は松倉城の支城としての役割を果たし、椎名氏から越後上杉氏が制圧。
その後、柴田勝家ら織田信長軍の越中侵攻があり、天正10年(1582)に有名な「魚津城の戦い」が勃発する。3月から開始された戦いは6月まで続き、激しい鉄砲の打ち合い、そして織田軍は大砲を投入するほどの激戦だった。上杉景勝は応援のために天神山城に入場するが、織田軍の大軍の前になすすべなく撤退。孤立無援となった魚津城は上杉軍十二将がすべて自刃し、6月3日に落城。しかし6月2日に「本能寺の変」が起きていたために織田軍は撤退。その後、上杉景勝が一旦奪還する。この「魚津城の戦い」はNHK大河ドラマ「天地人」で3週に渡って演じられたことで有名になった。
天正11年には佐々成政が魚津城を奪い取る。その後、前田利家の支配下になり、江戸時代には加賀藩の米倉や武器庫が置かれたため、堀などは明治初期までは残っていた模様。明治期からここには裁判所など置かれ、城跡は破壊された。
現在、跡地には大町小学校が建つ。ただ、その小学校も統廃合により2018年に閉校となる。以前は訪問すれば、児童に近づく不審者扱いの恐れがあったが、今はもうその心配もない。
しかし訪問したとて、遺構は何も無く、石碑などがあるだけである。(撮影2022年10月)
大河ドラマ「天地人」では、主役・直江兼続が、包囲する織田軍をくぐり抜け、水堀を渡り魚津城内に入っていましたけど、無茶な話ですねえ……。思えば奇妙なドラマでした。
でも魚津城を守る吉江宗信や安部政吉たちはカッコよかったです。
魚津城跡 位置
城跡地に立つ大町小学校。ただし合併により閉校しています。
以前は周囲を歩くのに気を使いました……。
校舎前にある石碑群
魚津城跡石碑
魚津城のシンボルともいうべき石碑
石碑を囲む石には矢穴があります。
富山城のものと一致するそうで、明治期にそこから持ってきたものと思われます。
案内板。魚津市内の遺跡案内はすべてこのスタイルですね。
魚津城の説明文
案内板の図面
古図と現代の地図との比較
松倉城郭群を含めた魚津城近辺の模型もあります。
「うおづ散歩」
戦いのイラストが気合入ってます。
よくできた復元図です。
スライドしてみることができる案内板。グッドアイデア。
小学校校庭。これがほぼ本丸の大きさ。
校庭の隅にある築山。
これが本丸の櫓台では?という見方がありますが、昭和25年までここに校舎がありました。
つまり後世積んだ山であり、櫓台の可能性はありません。
ちょうど本丸の隅に位置することには違いありませんが……。
道路がわずかに低く見られるのは、堀のなごりでしょうか。
常盤の松と、上杉謙信公歌碑
松は謙信公お手植えを伝えられたが、1950年の火事で枯れ、現在は2代目。
武士の鎧の袖を かたしきて枕に近き 初雁の声
魚津城の大堀跡と伝わる用水路
華王寺にある「上杉軍将兵之供養塔」(河原町)
境内にあった塚は、魚津城の戦いで自刃した上杉将兵を供養するものだったという。