富山県砺波市庄川町隠尾(地図)
隠尾(かくりょう)集落にある館跡で、上杉謙信によって攻められ城主南部源左衛門尚吉は鉢伏山にて戦死しました。
鉢伏山山頂に残される石碑(現在行方不明)に、当時の合戦の様子が記されているといい、そこには「隠尾村南部氏元祖南部次郎左衛門尉宗治は、この鉢伏山に築城(詰城)数代居城たりしが、中興の祖南部左衛門尉尚吉の代に至り越後国長尾景虎が近国に武威を振るいて越中増山城主と合戦、遂に増山城を攻略し、景虎それより隠尾城を攻めんと広谷道より大軍攻め寄せたり。この時、尚吉は広谷の要害に迎撃せんと防戦したるも寄せ手の大軍ますます猖獗を極め、戦い我れに利なきを悟り、家臣小原作蔵に命じて子息源右衛門を山中に隠れせしめ、尚吉自ら城に火を放ちて孤軍奮闘、遂に壮烈なる討死せし処なり。この時紀元二千二百十八年三月なり。永慰世霊の為此地に建立す」(以上、庄川町誌より)とあります。
鉢伏山の合戦は、その場所が秘境でもあり、史料も隠蔽され諸書に記載されておらず、遺構も残っていませんが、土まんじゅうなど無数の塚が発見されたと言われます。
隠尾城は集落南端の高台にあり、本丸は南北29m、東西21m、三方が断崖に守られ、北側の水田は堀の跡と伝えられます。南側の崖を20m下ったところに、籠城用の湧水跡があり、苔むした立石に「城清水」と刻まれているそうですが私は未確認です。また本丸跡には城主の悲運を泣き続けたという伝説の「啼石(なきいし)」と呼ばれる石があります。
隠尾集落は平成に廃村となりましたが、その起源は古い。『南部家譜』によると、南部遠江守宗継の舎弟・南部次郎左衛門尉宗治は足利直義に仕え、観応2年(1351)直義が滅びた後、郎党を伴い越中の鉢伏山山麓に逃れ館を構えたのが始まりだそうです。上杉勢に破れた尚吉の息子源右衛門主従は飛騨国金森出雲守に内縁があり、助けを求めて一時飛騨で過ごし、越中の戦乱も静まった後に隠尾に戻り、城跡の脇に館を構えたと言われます。源右衛門は百姓となって九左衛門と名のり、代々里山役人となって現代に至る由緒深い家柄です。その南部家も、今は朽ち果ててしまっていて残念極まりない状態です。 (撮影2010年5月)
参考文献:庄川町誌(昭和50年)
隠尾八幡宮の前で、集落に入る小道があります。
城跡前まで舗装道で、車で入れます。
奥が隠尾城跡。手前が伝堀跡になります。
主郭前にある案内板
隠尾城 案内板
西側の郭跡から主郭を眺める。
虎口状になっています。
土塁が遺っています。
主郭跡
主郭の中央にある啼石
なんとも奇妙な形をした岩です
主郭の南東側下に大きな郭跡があります。
更に南東方向の尾根に段が見られます。
南東から主郭を見上げる。
主郭の切岸はほぼ垂直で登るのは困難。
南側は急峻な斜面となっています。
籠城の湧水跡がある筈なんですが、よく分かりませんでした。
隠尾城 城郭図
(『富山県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用)