豊臣秀吉が佐々成政征伐の際に入城したと言われるのは定かではないが、先遣隊の織田信雄が布陣した。それ以前にも越後上杉氏が使用し、越中一向一揆勢に攻め取られている。
佐々以降は前田氏の城となり、関ヶ原の戦い直前まで使われていた模様。在城したのは前田家の武将・片山延高と岡嶋一吉というが、実際は白鳥城は詰城として、片山は大峪城、岡嶋は安田城にいた。
城跡は、東西の尾根沿いからの攻撃を強く意識し、深い横堀や枡形虎口を設ける縄張りとなっている。また北にも曲輪を延ばして警戒している。計画的な導線を設定し、徹底した守りは織豊系の縄張りでレベルも高い。おそらくは、富山の役後、東の佐々領を監視するために前田氏が改修したのが現在残る縄張りなのであろう。また、富山城方面の東側は急斜面で防御の曲輪は無いものの、いくつもの段が存在するそうで、それは秀吉による佐々攻撃時に使用されたものではないかと推測する研究者もある。
登山道が整備されているので、非常に訪問しやすい山城跡。しかし、城内の遊歩道は本来の導線を全く無視して作られており、切岸を破壊しまくっています。それはきっと、貴重な枡形虎口などを保存するためだと思いたい程。かといって、本来の導線を楽しもうとすると、ブッシュが酷くで大変です。
東出丸下に駐車スペースがあるので、そこから登城しましょう。
(撮影2012年4月)
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白鳥城 位置
白鳥城城郭図(『富山県中世城館遺跡総合調査報告書』より引用)
登山口駐車場にある石碑
本丸にある案内板
本丸にある平面図
(天守台は後世の盛土なので注意!)
石碑から上に登ると東出丸
三の丸
三の丸と二の丸の間にある横堀跡。
ここから二の丸に上る遊歩道は本来の導線を無視しています。
この空堀の奥に本来の虎口があります。
空堀奥(北)にある虎口跡
虎口空間に入ります。立派な枡形虎口です。(城郭図A)
ここは二の丸や上段の土塁から完全に囲まれています。
弓矢攻撃のめった打ちをくらいますね。
更に虎口を超えましょう。
この虎口空間は北側へと続きます。(城郭図B)
上記の虎口をにらむ二の丸と呼ばれる曲輪。
枡形虎口方向には土塁を設けています。
二の丸にある井戸跡
井戸の向こうには横堀が
二の丸から北方向に延びる空堀跡
二の丸直下にある枡形虎口がよく見えます。
航空写真
(昭和50年・提供:国土画像情報 国土交通省)